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ビクトリア()は、アメリカ合衆国テキサス州南東部のビクトリア郡に位置する都市であり、同郡の郡庁所在地である。2010年の国勢調査では人口62,592 人だった。3つの郡を合わせたビクトリア大都市圏の人口は、2000年国勢調査時点で111,163 人だった。 メキシコ湾から30マイル (48 km) 内陸に位置している。「黄金の三日月」と呼ばれる7郡の地域の中心であり、商圏人口は25万人以上となる。州内のコーパスクリスティ、ヒューストン、サンアントニオ、オースティン各市まで、車で2時間以内の位置にあるので、「交差点」とも呼ばれている。 市名は独立メキシコの初代大統領になったグアダルーペ・ビクトリア将軍に因んで名付けられた〔Texas Transportation Commission, ''Texas State Travel Guide, 2008'', p. 72.〕。市内にはヒューストン・ビクトリア大学とビクトリア・カレッジがある。ローマ・カトリック教会ビクトリア教区の大聖堂のある都市でもある。 == 歴史 == ルネ・ロベール・カバリエ=スール・ド・ラ・サールが、フランス植民地としてサンルイ砦を設立した。この砦は1685年から1689年まであった。その場所はビクトリアのガルシタス・クリーク近くマタゴルダ湾だった。 その後の1722年、スペイン人がニュエストラ・セニョーラ・デル・エスピリトゥ・サント・デ・シュニハ伝道所を設立した。ラ・サールのサンルイ砦に近いマタゴルダ湾にも、伝道所とそれを補うプレシディオ・ラ・バヒア(砦)が建設され、フランスからテキサス海岸を守り、地元のインディアンを集めることが意図されていた。インディアンを伝道所に留まるようにはできず、インディアンとスペイン兵の間に緊張関係ができたので、伝道所はグアダルーペ川沿いの適地に移された。この開拓地から出土した人工物がビクトリアのコースタル・ベンド博物館に展示されている。 伝道所は1726年にビクトリア近くに移され、ミッション・バレーのタミーク族とアラナマ族の間にあった。ダムと石造りの用水路が造られて、川から伝道所まで水を導いた。約12マイル (19 km) 離れた川沿いのトンカワ・バンクで漆喰と石でできた牧畜の前進基地も造られた。砦も追加され後にフェルナンド・デ・レオンの牧場となる場所に建設された。この開拓地は26年間続き、他のスペイン開拓地と穀物や干し草を交易できるほどになった。同時に、牛と馬の牧場の基礎ができた。 1824年、マルティン・デ・レオンによって植民地が造られ、テキサスでは唯一メキシコ人が多い植民地になった。ビクトリアはこの植民地の中心であり、メキシコ政府がテキサスを開拓する動きの一部となった。1840年3月から11月、リオグランデ共和国政府がビクトリアで運営されたが、共和国の崩壊と共に消滅した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ビクトリア (テキサス州)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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